羽田雅一の「One&Only」探訪記

易きに流れる企業に競争力など宿らない 拠り所となるのは「生産は愛なり」の心

2023.02.15

対談
#ものづくり #サステナビリティ

ものづくりへの熱い想いやこだわりで異彩を放つ企業がある。急功近利をよしとせず、慧眼と信念で我道を切り拓いてきた先達だ。そんな「One&Only」を体現している現場にビジネスエンジニアリング(B-EN-G)社長の羽田雅一が赴き、その強さの源泉に迫る。
今回、登場するのはアルギン酸の製造で業界トップを走る株式会社キミカだ。2022年10月に竣工したばかりの新社屋「キミカ本館」(千葉県富津市)を訪ね、社長として陣頭指揮を執る笠原文善氏にビジネスの根底に流れる強い「想い」を聞いた。

アルギン酸の雄「キミカ」を貫く「ものづくりの魂」とは-

アルギン酸という言葉にピンとこなくても、実は我々にとってとても身近な存在だ。今朝、食べたパンがふんわりとしていたならば、そこにはたいていアルギン酸が使われている。昼食のラーメンのもっちりした食感もアルギン酸のなせるわざ。このようにアルギン酸は、食品分野において小麦粉製品の品質改良材などに広く利用されている。
医薬分野でもアルギン酸は欠かせない。通常は水に溶けず、アルカリで中和されると溶解するアルギン酸の性質が、特殊な錠剤の崩壊剤に利用されているのだ。例えば、胃で溶けずに腸で溶けるタイプの錠剤を設計する際などに活躍の場がある。

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そんなアルギン酸の製造・販売で国内トップ、さらには世界市場でも大きな存在感を示しているのが、キミカだ。同社の創業は太平洋戦争が勃発して間もない1941年のこと。現在、代表取締役社長を務めている笠原文善氏は、「戦地でマラリアに罹患して傷病兵として復員した父・文雄が、療養のため滞在していた千葉県君津郡(現・富津市)で、海岸に漂着し朽ち果ててゆく大量の海藻を目の当たりにし、これを資源として有効活用することで国のために役に立てないかと考えたのが事業のルーツです」と説明する。
想いを実現すべく立ち上がり、試行錯誤を繰り返した文雄氏は、やっとのことで海藻からアルギン酸を工業的に抽出することに成功。製造されたアルギン酸は、戦時中は代用切削油や塗料の増粘剤として日本軍に採用された。以来80年以上にわたってキミカは、「アルギン酸の生みの親、育ての親」としての自負と責任感を持ちながら、その用途開発に取り組んできた。
B-EN-G社長の羽田は、「育ての親」という言葉に惹かれるものがあった。様々な研究、時には失敗を重ねながら、アルギン酸そのもののバリエーションや、それぞれにマッチした適用領域を次々と広げてきた取り組みは並大抵ではなかったはずだ。モノを作って終わりではなく、市場も共に開拓してきたからこそ、社業に一層の愛着と誇りが持てることを再認識した。

自ら生み出した仕事は時代が変わっても適合できる

もっとも、今日までの道のりが順風満帆だったわけではない。文雄氏の長男として1956年に生まれた文善氏は大学院を卒業後、大手製薬会社の研究員として勤めていたが、入社3年目の27歳の時に父が他界。急遽、キミカ(当時、君津化学工業)に転じて後継者として経営に参画することになった。この時、会社は四重苦と言われるほど厳しい環境下にあったという。
「前年に発生した大規模なエルニーニョ現象の影響を受け、良質な海藻はきわめて入手困難となり、価格も高騰していました。また、アルギン酸抽出残渣を加工して鋳型粘結剤として販売していたのですが、その大半を納入していた大手自動車メーカーから突如として使用中止の通告を受け残渣処理に窮していたのです。その状況下、東京湾沿岸の工場排水に対して濃度規制に加えて総量規制がかけられることになり、操業を続けるには排水処理設備に巨額の投資が必要となっていました。さらに中国製のアルギン酸が輸入され始め、市場価格はどんどん下りつつありました」(文善氏)。
心配する周囲からは「もうアルギン酸にこだわるのはやめて、事業を転換すべき」という声が寄せられ、文善氏自身も真剣に思い悩んだ。しかし、結論として文善氏がアルギン酸から撤退することはなかった。何よりも顧客あってのビジネスである。例えば、食品メーカーや製薬メーカーは、キミカのアルギン酸を原料や処方に組み込んでシェルフライフテストやバリデーションを行っており、安易に他社製品に変更することができない。「そんなお客様に対して、背を向けるわけには行きませんでした」と文善氏は話す。
とはいえ、「八方塞がりの状況では、祖業に踏みとどまろうとの最終判断はたやすくなかったはず」と羽田は想いを巡らせる。そんな時に拠り所となったのは何だったのだろうか。「先々を考えて、やはりアルギン酸で行こうとの答えを出したことには、どんな理由や背景があったのでしょうか」と文善氏に水を向けてみた。文善氏の背中を押したのは、キミカ創業時の親会社であり、影になり日向になってキミカを支援し続けてきた笠原工業(ルーツは製糸業で後に発泡スチロールなども製造)の笠原良平氏から掛けられた言葉だったという。「アルギン酸は他人から教わったり、他人を真似たりしてやってきた仕事ではないはず。自ら生み出してきた仕事には展開力と応用力がみなぎっている。だからこそ時代や環境が変わっても、それに適合してどんどん自分を変えていけるし、価格も自分で決めることができる。これに対して、他人から教わった仕事はそうはいかない。そう考えると、今、携わっているアルギン酸の事業はいい仕事だよ。儲からないのは、やり方が悪いに違いない」──。

起死回生をかけて南米チリに工場進出

この言葉を噛み締めた文善氏は、ものづくりの本質に想いを寄せた。自らが考え、工夫し、市場に問う。目先の損得に惑わされずに先々を見通す。自分のことだけでなく、顧客をはじめとしたステークホルダーとの互恵関係を忘れない。生業に、愛を持って専念すべしとの哲学を良平氏から受け継いだ文善氏は、「どうせやるならアルギン酸のパイオニアとしての地力を活かし、“Best in the world”を目指そう」と奮起。起死回生の打開策として1987年には、世界中で最も恵まれた海藻資源を持つ国、南米チリへの工場進出を決断した。当時、埋め立てが盛んだった千葉では海藻が次第に採れなくなっており、ならばと資源量が桁違いの海外に目を向けたことが背景にある。候補に挙がった南アフリカやタスマニアなどにも行ってみたが、最適に映ったのがチリ。稼働率の伸び悩みで苦しんでいた千葉県富津市の工場から遊休設備を現物出資で持ち込み、自分たちの手で生産ラインを組み上げた。また、現地のアタカマ砂漠で暮らす漁民たちから、海岸に漂着した海藻を買い付けることも始めた。当初は商社経由で調達したものの、商社側では在庫を持つ慣習がないため入手できる量が気象条件などに大きく左右されてしまう。そこで打開策として考えたのが、漁民から直接買い付けて、自社で在庫を持つというやり方だった。キミカにとっては漁民たちが頼みの綱。もっとも、銅鉱山などを営む企業も働き手を求めていたため、うかうかしてはいられない。採れた時に採れた分だけきちんと買うことを公言し、それが安定的な生活を望む漁民に歓迎されることになった。事業を軌道に乗せることや、持続可能性を担保することに端を発するキミカの方策ではあったが、結果的には地域住民にもメリットをもたらす形に落ち着いたのである。このエピソードを聞いた羽田は、ステークホルダーとの共存共栄という観点で興味を覚えた。「いつでもコンスタントに買い取ってキミカ側で在庫を持つ仕組みをオーガナイズしたのは、第一義には自社の事業を安定・発展させるためだったかもしれません。でも、地域の人々の暮らしも含めて広い視野を持てているからこそ、このエリアになくてはならない企業として受け入れられた。地域に根ざし共に栄えようという本気の取り組みが実を結んだのだと思います」。

目先の利得に惑わされない「生産は愛なり」の心

チリ進出がきっかっけとなって始まったのが、当時、世界最大のアルギン酸メーカーだった米国A社との取引だった。もっとも、A社から依頼されるのは、手間がかかる面倒な仕事や難易度が高く歩留まりが悪い仕事ばかり。実際に最初のうちは不良在庫の山を築き、チリ工場は惨憺たる有様だった。それでもキミカは絶対にノーと言わず、たとえライバル会社からだとしても、注文が来たものは断らない姿勢を貫いた。「何でも引き受けようと腹をくくったんですよ」と文善氏は言う。その経験の中で確信したのが、「引き受けた方は能力を身に付け、任せきった方は能力を失う」ことだった。「難しくて投げ出したいと思うことも、堪えながら知恵と力を振り絞って繰り返しているうちに勘所を掴んで、少しずつ達成できるようになるものです。やがてチリの工場は実力を蓄え、透明度が非常に高いアルギン酸や、真っ白なアルギン酸など、徹底的に特化した製品を作れるようになりました。これなら絶対、安価な中国製品とはバッティングしません。また不良率が下がるにつれて、利益率が上がった点も見逃せません」と話す文善氏は次のように続ける。「A社がその後どうなったかというと、2005年に主力工場を閉鎖し、高付加価値製品であるアルギン酸エステルの生産を弊社に全面委託することになりました。A社にとってキミカはなくてはならない存在となり、最終的にはアルギン酸エステルの市場をすべて弊社が頂いてしまったのです」。こうしてキミカは、日系のアルギン酸専業メーカーとして稀有の存在となったわけだが、なぜこの熾烈なサバイバルを勝ち残ることができたのか──。文善氏はあらためて次のように総括する。「撤退していった同業他社は、ビジネスライクに目先の得を追いかけていて、顧客や取引先ではなく、自社の合理性や効率性を優先して数字ばかりを見ていた。これでは信頼感など生まれるはずもありません。対して弊社は、親が我が子を愛するように、本当に愛情を込めてアルギン酸とその市場を育ててきました。まさに『生産は愛なり』で、アルギン酸に対する思いが他社とは圧倒的に違う。それだけは胸を張って言い切れます。要は、易きに流れていては持続的成長など望むべくもないのです」

【REPORT】羽田雅一の取材ノートから

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創業80周年を機に建設した新社屋「キミカ本館」をはじめ、工場から倉庫までつぶさに見学させていただきました。笠原文善社長からも詳しいお話を伺うことができ、キミカという会社の“偉大さ”を知ると共に、その根幹を成している“強い想い”に触れることができました。私自身にとって大きな学びとなったことが多々ありましたが、特に印象に残ったことを3つほど挙げてみたいと思います。

環境や持続性への深みある姿勢

SDGsやサステナビリティといった言葉が連日のように取り沙汰されています。人のため、地域のため、地球のため…などと響きのよいフレーズが先行しがちですが、キミカさまの場合は昨今のムーブメントとは別次元の深みがあるように感じました。80年以上も前、邪魔者扱いされてきた海藻をアルギン酸として再生するチャレンジに端を発し、「どうしたら事業を発展させられるか」「どうしたらキミカを存続させられるか」を実直に究めてきた結果として、持続可能な共存共栄へと帰着していることに感銘を覚えます。

主導権を握ることへの努力と固執

自分たちが力を付けて、他の追随を許さない状況をつくる。それには並々ならぬ努力が必要です。キミカさまでは、相談のあった仕事は全て受けることに徹し、自ら退路を断つ覚悟で臨みました。後に、大手すらも“キミカ依存症”になったのは、絶望の日々を耐え抜いて身に付けた実力が本物だったことの証左です。チリに地歩を築いた際、大手から買収を持ちかけられても微動だにせず、逆に「いくらなら貴社を買えるのか」と突っぱねたそうで、実に痛快なエピソードとして聞きました。主導権を握る努力と固執の念は、多くの企業が見習うべきポイントですね。自ら積み上げてきたことは、世の中が変わっても自在に対応できるとの言葉が心に響きました。

全てに貫流する生産は愛なりの心

迷いが生じた時の拠り所として「生産は愛なり」という理念があるのは素晴らしいことです。儲かるから尊いのではなく、愛を注ぐ製品を開発して生産することそのものが尊い。その製品を大事にすれば、当然ながら知恵や工夫、そして勇気が湧いてくる。さらには顧客や取引先などのステークホルダーも愛することへと広がりを見せる──。その心が会社の中を脈々と流れているのですから。私どもも多くの競合他社がひしめく市場の中で、mcframeという製造業向けのSCM統合パッケージを自社開発し、愛情を込めて育ててきました。そうすると当初は外資系をはじめとする大手のパッケージには太刀打ちできないと思っていたのが、次第にキミカ様をはじめ多くのお客様からご評価をいただけるようになりました。愛情を込めて製品を育てることは、まさにものづくりの原点であり、私自身も今後に向けて大きな勇気が湧いてきました。易きに流れることなく、これからも精進しなければなりません。